山城国一揆と加賀一向一揆―地域社会はなぜ守護の争いに介入し、自ら政治秩序をつくったのか
一言でいうと
応仁・文明の乱の後も、各地では守護家や有力武士の争いが続きました。しかし地域社会は、上からの決着を待つだけではありませんでした。1485年の山城国一揆では山城国の国人が結集し、争いを続けていた畠山氏の両軍を国外へ退去させ、その後は惣国と呼ばれる地域的な結合によって政治秩序を運営しました。一方、1488年の加賀一向一揆では、本願寺門徒を中心とする勢力が守護富樫政親を倒し、本願寺系寺院・門徒勢力と富樫氏などが関わる新しい権力関係が形成されました。両者を同じ種類の一揆や単純な農民反乱と考えず、地域の人々が守護権力の争いへ介入し、自ら秩序形成の担い手になった点と、その組織原理の違いを理解します。
応仁の乱が終われば、地域は平和になったのか
1477年に京都を中心とする応仁・文明の乱の大規模な戦闘は終息しました。しかし、全国が一斉に安定したわけではありません。幕府が有力大名間の争いを十分に調停できなくなる一方、各地域では守護・守護代・国人などが独自に勢力関係を組み替えていきました。
山城国では、応仁の乱の原因の一つでもあった畠山義就と畠山政長の争いが続きました。1483年には南山城で戦闘が再開し、双方とも決定的な勝利を得られないまま、地域社会は長期の戦乱にさらされました。
この時期には、室町時代に発達した国人や惣村の結合が、地域の問題を共同で処理する基盤になっていました。正長の土一揆などで見た集団行動が、ここでは地域そのものの政治秩序をめぐる問題へ広がっていきます。
「一揆」は全部同じものなのか
正長の土一揆、山城国一揆、加賀一向一揆は、いずれも「一揆」と呼ばれます。しかし、同じ種類の集団ではありません。誰が中心になり、どのような結びつきで行動し、何を実現しようとしたのかを事件ごとに区別する必要があります。
山城国一揆では、在地の武士である国人による地域的な結合が政治秩序の中心となりました。一方、加賀一向一揆では本願寺の門徒組織と信仰上の結合が大きな役割を果たしました。
したがって、土一揆・国人一揆・一向一揆を「農民が支配者に反乱したもの」と一括して覚えないことが重要です。
1485年、山城国一揆は何をしたのか
1485年、南山城の国人たちは、それまで畠山義就側・政長側に分かれていた立場をこえて結集し、両軍に山城国から撤退するよう要求しました。交渉の結果、両畠山軍は南山城から退去しました。
重要なのは、一方の畠山氏を支持してもう一方を倒したのではなく、長く戦争を続けていた両方の軍勢を地域から退去させたことです。精華町の文化財保存活用地域計画では、この動きの背景に「土民」と呼ばれた農民の意向も反映されていたと考えられています。
守護家の争いを上位権力の政治として受け入れるだけでなく、地域社会の側が戦争を終わらせるために介入した点に山城国一揆の大きな特徴があります。
畠山軍を追い出した後、誰が山城を治めたのか
軍勢を退去させても、それだけでは地域の秩序を維持できません。山城の国人たちは惣国と呼ばれる地域的な結合をつくり、合議によって政治を行いました。
1486年には山城国人が宇治の平等院に集まり、「国中の掟」を定めたことが宇治市の歴史資料で確認できます。つまり山城国一揆は、守護の軍勢を排除するだけでなく、自分たちで地域の規則を定める段階まで進みました。
この自治的な政治は1493年まで続きました。ただし、現代の民主主義や農民だけによる自治国家と同じものではありません。政治の中心は国人の合議であり、農民の意向を含む地域社会と国人の政治を区別しながら理解します。
1488年、加賀一向一揆では何が起こったのか
加賀では、守護富樫氏の内部対立と本願寺門徒の広がりが重なり、山城とは異なる政治状況が生まれていました。守護の富樫政親は一向宗門徒を弾圧し、門徒勢力との対立を深めました。
1488年、政親が将軍の近江出陣に従うための費用を国元へ賦課すると、反政親派の反発が強まりました。彼らは一向一揆を中心に政親の大叔父富樫泰高を擁立して蜂起します。
政親は帰国して鎮圧を試みましたが、高尾城を包囲されて自害しました。これが1488年の加賀一向一揆で守護富樫政親が倒された出来事です。
加賀では「百姓だけが国を支配した」のか
加賀一向一揆は、しばしば「百姓の持ちたる国」という表現と結びつけて説明されます。しかし、1488年以後を「農民が守護を追放し、農民だけで加賀を支配した」と理解するのは単純化しすぎです。
政親の死後には、一揆勢が擁立した富樫泰高が加賀守護となりました。また石川県立図書館の解説では、富樫氏の権威が低下する一方、本泉寺・松岡寺・光教寺など本願寺系寺院の影響力が強まり、泰高も本願寺勢力との協調路線をとったことが示されています。
したがって、守護という権威がただちに消滅したのではなく、本願寺系寺院・門徒勢力と富樫氏などの関係のなかで地域の政治秩序が組み替えられたと理解します。
山城国一揆と加賀一向一揆は何が違うのか
山城では、畠山氏の戦争によって地域が荒らされるなか、国人を中心とする地域的な結合が両畠山軍を排除し、惣国による合議的な自治を行いました。
加賀では、本願寺門徒の宗教的・地域的ネットワークを重要な基盤とする一向一揆が政治勢力となり、富樫政親を倒しました。しかし、その後も富樫泰高が守護となっており、旧来の権威が完全に消えたわけではありません。
両者の共通点は、地域社会の側が守護や有力武士の争いに介入し、自分たちが参加する政治秩序をつくったことです。一方、山城では国人・惣国という地域的結合、加賀では本願寺門徒を軸とする宗教的結合が大きな役割を果たした点が異なります。
なぜこれが戦国時代につながるのか
二つの一揆を「身分の低い者が高い者を倒した」という下剋上だけで捉えると、政治秩序の変化が見えにくくなります。重要なのは、室町幕府や守護が上から地域秩序を維持するだけではなくなったことです。
ある地域では国人が合議して秩序をつくり、別の地域では宗教組織と地域社会が結びついて守護権力を組み替えました。その一方で、別の地域では守護代や国人層などから自立的な領国支配を進める戦国大名が形成されていきます。
したがって戦国時代の始まりを「幕府が弱くなって全国が無秩序になった」とだけ考えません。幕府・守護を中心とする秩序が揺らぎ、地域ごとに異なる主体が政治秩序をつくり直していく過程として理解します。次は1493年の明応の政変と伊勢宗瑞の伊豆進出から、戦国大名形成の別の形を見ます。
このページで覚えたい流れ
応仁・文明の乱後も守護家の争いが継続 → 地域社会が戦乱や負担にさらされる → 国人・惣村・宗教組織など既存の結合が政治行動へ → 1485年 山城国一揆:両畠山軍を退去させ、惣国による自治へ → 1488年 加賀一向一揆:本願寺門徒を中心とする反政親勢力が富樫政親を倒す → ただし富樫泰高は守護となり、農民だけの支配にはならない → 地域ごとに政治秩序が組み替えられる → 1493年 明応の政変・伊勢宗瑞の伊豆進出へ
山城国一揆と加賀一向一揆は、どちらも地域社会が政治へ介入した点では共通しますが、一揆を支えた組織と成立した秩序は同じではありません。
Review
入試で押さえるポイント
- 1485年の山城国一揆では、南山城の国人が両畠山軍を退去させた
- 山城では惣国が形成され、1486年には平等院で「国中の掟」が定められた
- 山城国一揆は国人を中心とする地域的結合で、農民だけによる自治国家ではない
- 1488年の加賀一向一揆では、本願寺門徒を中心とする反政親勢力が守護富樫政親を倒した
- 政親死後も富樫泰高が守護となっており、「守護が消滅し農民だけが支配した」とは考えない
- 山城と加賀では一揆の主体・組織原理が異なるが、地域社会が守護権力の争いに介入し政治秩序を再編した点が共通する
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- 問1
山城国一揆と加賀一向一揆は、ともに農民だけが同じ仕組みで組織した反乱だった。
山城では国人を中心とする地域的結合、加賀では本願寺門徒を軸とする宗教的・地域的結合が大きな役割を果たしました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1485年の山城国一揆では、国人たちは畠山氏の一方を支持するのではなく、争っていた両畠山軍を南山城から退去させた。
国人たちは両軍に撤退を要求し、長期戦を地域から排除する方向で介入しました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
山城の惣国は、農民全員が平等に政治参加する現代的な民主制として運営された。
惣国の政治の中心は国人の合議であり、農民の意向も背景にありましたが、現代的な民主制や農民だけの自治国家とは異なります。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1488年に富樫政親が倒された後、加賀では守護という権威が消滅し、農民だけが国を支配した。
政親の死後も富樫泰高が加賀守護となり、本願寺系寺院・門徒勢力と富樫氏などの関係のなかで政治秩序が組み替えられました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
山城国一揆と加賀一向一揆は組織原理こそ異なるが、地域社会が守護権力の争いへ介入し、地域の政治秩序を再編した点では共通する。
山城では国人・惣国、加賀では本願寺門徒を軸に、それぞれ地域側が政治秩序の形成に関与しました。
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Timeline
関連する年表
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Sources
参考資料
- 精華町文化財保存活用地域計画(案) 第1章 第3節 歴史的背景精華町
畠山氏の内紛、1485年の両軍退去、惣国の自治、1493年の解体を確認する資料
- 宇治市歴史的風致維持向上計画 第1章 宇治市の歴史的風致形成の背景宇治市
1486年に山城国人が平等院へ集会し国中の掟を定めたことを確認する資料
- 石川県立図書館 第209回企画展示 一向一揆と富樫氏石川県立図書館
1488年の長享の一揆、富樫政親の自害、富樫泰高の擁立と加賀の政治秩序を確認する資料
- 富樫政親・富樫泰高 人物詳細石川県立図書館 SHOSHO
富樫政親の生没年・一向一揆との対立、および関連文献を確認する資料
- 加賀一向一揆の発生史学会(J-STAGE)
加賀の一向一揆を本願寺門徒の組織と宗教的結合から検討する研究論文
