明応の政変と伊勢宗瑞―守護大名から戦国大名へ何が変わったのか
一言でいうと
1493年の明応の政変では、細川政元らが10代将軍足利義材を退け、足利義澄を新たな将軍として擁立しました。室町幕府そのものが滅亡したわけではありませんが、将軍家は分裂し、有力者がどの将軍を支持するかによって政治勢力が組み替えられる状況が深まります。同じ1493年、のちに北条早雲と呼ばれる伊勢宗瑞が伊豆へ進出しました。宗瑞は一介の浪人ではなく幕府と関係の深い伊勢氏の出身で、その伊豆進出も明応の政変後の政治と結びついて理解されています。守護大名から戦国大名への変化を、古い権力が一斉に消えた出来事ではなく、既存の幕府・守護秩序を利用しながら地域に自立的な支配を築く権力が成長した過程として理解します。
1493年の直前、幕府では何が起きていたのか
応仁・文明の乱後も、畠山氏内部の争いは続いていました。10代将軍足利義材は畠山政長を支持し、1493年に河内の畠山基家を討つため自ら出陣します。
しかし将軍と政長が京都を離れている間に、細川政元・日野富子・伊勢貞宗らが政変を起こしました。義材は将軍の地位を失い、畠山政長は自害し、政元らは足利義澄を新たな将軍として擁立します。これが明応の政変です。
前のTopicで見た山城国一揆の背景でもあった畠山氏の争いは、1493年にも幕府政治の中心問題であり続けていました。地域の争いと中央政治は別々ではなく、相互に結びついていました。
明応の政変で室町幕府は滅亡したのか
滅亡していません。政変後も足利義澄が将軍となり、室町幕府の制度は存続しました。
一方、義材も政治的に消滅したわけではありません。捕らえられた後に京都を脱出し、越中へ移って細川政元討伐を呼びかけました。1493年11月には、義材が九州の大名へ政元討伐への協力を求めた文書も残っています。
つまり、京都の義澄だけが誰からも認められる唯一の将軍になったわけではありません。将軍家の分裂と、それを支持する有力者の分裂が重なり、将軍を中心に全国政治をまとめる仕組みがさらに不安定になった点が重要です。
伊勢宗瑞とは誰なのか
伊勢宗瑞は、一般には北条早雲の名で知られています。しかし宗瑞本人は北条を名乗っていません。北条を名乗るのは子の氏綱の代です。
現在では、宗瑞は備中国荏原荘を基盤とした備中伊勢氏の出身で、室町幕府の政所執事を出した伊勢氏の一族と考えられています。また若いころには将軍に近侍する申次衆を務めたことが確認されています。
したがって、「身分の低い素浪人が実力だけで一国を奪った」という古い早雲像を、そのまま戦国大名の典型として使うことはできません。このページでは本人の生前の呼称に近い伊勢宗瑞を基本とします。
宗瑞はなぜ伊豆へ進出したのか
1493年、宗瑞は伊豆の堀越御所を攻め、堀越公方足利茶々丸を追いました。堀越公方は、関東の政治を立て直すため幕府から派遣された足利将軍家の一族です。
初代堀越公方足利政知の死後、茶々丸は異母弟潤童子とその母円満院を殺害し、堀越公方の地位をめぐる内紛が起きていました。1493年の明応の政変で将軍となった義澄は、政知の子であり、殺害された潤童子の兄弟でした。
そのため現在では、宗瑞の伊豆進出を幕府に反逆した独立した「国盗り」だけではなく、明応の政変で成立した義澄側の政治と結びつく軍事行動として理解する見方が示されています。中央の政変と関東の伊豆進出は、無関係な二つの事件ではありません。
1493年に宗瑞は一瞬で伊豆を支配したのか
1493年の堀越御所攻撃は、宗瑞が伊豆へ大きく進出する決定的な節目でした。しかし、その瞬間に伊豆全域の支配が完成したわけではありません。
茶々丸はその後も抵抗を続けたとされ、小田原市の解説では1498年に深根城で捕らえられて自害したとする伝承が紹介されています。
したがって「1493年に宗瑞が一日で伊豆一国を完全征服した」とは考えません。伊豆に政治・軍事的な基盤を築き、その後相模方面へ勢力を広げていく長期的な過程の出発点として理解します。
守護大名と戦国大名は何が違うのか
室町時代の守護大名は、幕府から守護に任命されることを重要な権力基盤としていました。守護としての権限を利用し、国人を家臣化したり、荘園・公領へ支配を広げたりして領国を形成していきます。
これに対して戦国大名では、幕府から守護に任命されているかどうかだけではなく、自らの軍事力・家臣団・土地と年貢の把握・裁判・法・城下町などを組み合わせ、地域に根ざした自立的な領国支配を構築できるかが重要になっていきます。
つまり、権力の根拠が幕府の官職から完全に切り離されたのではありませんが、「幕府から与えられた地位」だけでなく、「実際に地域社会を統治できる仕組み」を持つことの重要性が増していったと考えます。
守護大名が全員倒され、別の戦国大名に交代したのか
そうではありません。守護大名から戦国大名への変化は、全国一斉の世代交代ではありませんでした。
守護大名そのものが領国支配を強化して戦国大名化する場合もあれば、守護代・国人などから成長する場合もありました。島津氏などの研究でも、守護大名から戦国大名への移行が複数の段階を経て進んだことが示されています。
伊勢宗瑞は守護大名そのものから戦国大名化した例とは異なります。戦国大名には一つの誕生パターンしかないことを、宗瑞の事例からも確認できます。
では「下剋上」は間違いなのか
下剋上という言葉自体が誤りというわけではありません。従来の身分や家格だけでは政治的な優劣が決まらず、下位の勢力が上位の権力者を退ける現象は戦国時代の重要な特徴です。
ただし、伊勢宗瑞を「無名の浪人が実力だけで大名を倒した下剋上の典型」と説明するのは不正確です。宗瑞は幕府中枢と接点を持つ伊勢氏の出身で、今川氏との関係や幕府政治との結びつきを利用しながら勢力を伸ばしました。
戦国時代の新しい権力は、古い秩序を完全に捨てて突然生まれたのではありません。幕府・守護・公方など既存の権威を利用し、組み替えながら地域に独自の支配を築いていきました。
なぜ1493年が重要なのか
明応の政変では、有力政治勢力が現職将軍を退けて別の将軍を擁立しました。同じ年、伊勢宗瑞は幕府政治とのつながりを持ちながら伊豆へ進出し、やがて地域に独自の支配領域を築いていきます。
一見すると「京都では幕府が弱くなる」「地方では戦国大名が強くなる」という別々の現象に見えます。しかし戦国大名は幕府と無関係に突然誕生したのではなく、幕府・守護・公方・国人など既存の政治関係を利用し、再編しながら形成されました。
守護大名から戦国大名への変化は、「幕府から任命された地位を持つこと」から「地域社会を実際に統治できる力を持つこと」へ権力の重心がしだいに移っていく過程として理解すると分かりやすくなります。次は、その領国支配が分国法・検地・貫高制・家臣団・城下町によってどのように具体化されたのかを見ます。
このページで覚えたい流れ
応仁・文明の乱後も畠山氏の争いが継続 → 足利義材・畠山政長が河内へ出陣 → 1493年 細川政元らが明応の政変 → 義材を退け足利義澄を擁立 → 義材も越中へ移って抵抗を継続し、将軍家・幕府政治の分裂が深まる → 同じ1493年、幕府と今川氏に関係を持つ伊勢宗瑞が伊豆へ進出 → 地域に独自の軍事・政治基盤を形成 → 各地で守護・守護代・国人などからさまざまな戦国大名が形成 → 分国法・検地・家臣団・城下町などによる領国支配へ
「将軍が弱くなったから地方の無名武士が勝手に国を奪った」と覚えるのではなく、既存の幕府秩序が分裂する一方、その秩序を利用・再編しながら地域権力が自立していった流れを押さえます。
Review
入試で押さえるポイント
- 1493年の明応の政変では、細川政元らが足利義材を退けて足利義澄を擁立した
- 明応の政変後も室町幕府は存続し、義材も越中へ移って政治活動を続けたため、単純な「幕府滅亡」ではない
- 伊勢宗瑞はのちの北条早雲だが、本人は北条を名乗らず、幕府と関係の深い伊勢氏の出身
- 1493年、宗瑞は堀越公方足利茶々丸を攻めて伊豆へ進出した
- 宗瑞の伊豆進出は明応の政変後の足利義澄側の政治とも関係し、単純な浪人による国盗りではない
- 守護大名から戦国大名への変化は全国一斉の交代ではなく、地域に根ざした自立的な領国支配が各地で形成される段階的な過程
Check
理解度チェック
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0 / 5 問回答
- 問1
1493年の明応の政変によって室町幕府はその場で滅亡した。
政変後も足利義澄が将軍となり幕府制度は存続しました。一方で義材も政治活動を続け、将軍家の分裂が深まりました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
将軍職を失った足利義材は京都を脱出した後も、細川政元討伐への協力を大名へ求めるなど政治活動を続けた。
義材は越中へ移り、1493年11月には九州の大名へ政元討伐への協力を求める文書を出しています。
本文の該当箇所を確認する - 問3
伊勢宗瑞は幕府と無縁の身分の低い浪人で、既存の政治関係を使わず実力だけで伊豆を奪った。
宗瑞は幕府と関係の深い伊勢氏の出身で、将軍に近侍した経歴もあり、伊豆進出も明応の政変後の政治との関連から理解されています。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1493年の堀越御所攻撃によって、宗瑞はその日に伊豆全域の支配を完成させた。
1493年は大きな進出の節目ですが、茶々丸の抵抗も続き、伊豆支配は段階的に形成されました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
戦国大名は、守護大名の戦国大名化、守護代や国人からの成長など、地域によって異なる経路で形成された。
守護大名がそのまま戦国大名化する例も、守護代・国人などから成長する例もあり、全国一斉の単純な交代ではありませんでした。
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Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
参考資料
- ゼロから学んでおきたい「戦国時代」《上》國學院大學
1493年の明応の政変、足利義材から義澄への将軍交代と将軍家分裂の位置づけを確認する資料
- 相良家文書(足利義材(義稙)御内書)〔細川政元退治〕慶應義塾大学メディアセンター
1493年11月に足利義材が細川政元討伐への協力を求めていたことを確認する一次史料
- 広報小田原アーカイブ(令和元年8月1日発行)小田原市
伊勢宗瑞の出自、幕府申次衆としての経歴、北条早雲像の研究上の更新を確認する資料
- 北条早雲の伊豆討入小田原市
足利政知死後の堀越公方家の内紛と1493年の宗瑞による伊豆進出を確認する資料
- 広報小田原アーカイブ(令和元年1月1日発行)小田原市
宗瑞の伊豆進出を明応の政変と足利義澄擁立に関連づける現在の解釈を確認する資料
- 中世後期島津氏の権力構造国立国会図書館 NDLサーチ(京都大学学術情報リポジトリ連携)
守護大名から戦国大名への移行が段階的に進む事例を確認する研究資料
