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戦国時代1582年政治・外交重要度 A

本能寺の変と秀吉の台頭―なぜ信長の死後、秀吉がいち早く主導権を握れたのかほんのうじのへんとひでよしのたいとう なぜのぶながのしごひでよしがいちはやくしゅどうけんをにぎれたのか

一言でいうと

1582年、明智光秀が京都の本能寺で織田信長を襲撃し、信長と嫡男信忠が死亡しました。織田政権の最高権力者と有力な後継者が同時に失われ、大きな権力の空白が生まれます。当時、備中高松城で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は講和を成立させて畿内へ戻り、山崎の戦いで光秀を破りました。この勝利によって秀吉は「信長の仇を討った有力家臣」として大きな政治的優位を得ます。ただし、山崎で勝った時点で秀吉が信長の後継者に確定したわけではありません。その後も織田家の後継者問題や柴田勝家らとの争いが続きます。

1582年の織田政権はどのような状況だったのか

本能寺の変の直前、信長の勢力は急速に拡大していました。1582年には武田氏を滅ぼし、各方面では織田家の有力武将がさらに支配地域を広げるために軍事行動を続けていました。

羽柴秀吉は中国地方で毛利氏と戦い、備中高松城を包囲していました。つまり、本能寺の変が起きたとき、信長の有力家臣たちは一か所に集まっていたのではなく、それぞれの戦線へ展開していました。

この配置の違いが、本能寺の変後に誰がどれだけ早く畿内へ戻れるかという政治状況にも影響します。

本能寺の変では何が起こったのか

1582年6月、明智光秀あけちみつひでは軍を京都へ向け、本能寺に滞在していた織田信長おだのぶながを襲撃しました。

さらに信長の嫡男・織田信忠も二条御所で攻撃され、父子ともに死亡しました。

ここで重要なのは、信長だけでなく有力な後継者だった信忠も失われたことです。そのため、単なる当主交代では済まない大きな政治的空白が生まれました。

光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか

この問いには、現在も一つの確定した答えを置かない方が適切です。

光秀個人の野心、信長との関係、四国政策をめぐる問題など、さまざまな要因が研究されてきましたが、一つの動機だけで確定的に説明できる状況ではありません。

大学受験では、1582年に光秀が信長を本能寺で討ったという結果をまず確実に押さえ、動機については諸説があると理解します。

信長を倒した光秀はなぜ政権を固められなかったのか

信長を急襲することには成功しましたが、それだけで織田政権全体を引き継げるわけではありませんでした。

光秀は近畿の武将たちから支持を得ようとしましたが、期待した協力を十分に確保できませんでした。さらに、信長の死を知った秀吉が西から急速に戻ってきます。

光秀には、信長を倒したあとの政治秩序を固める時間がほとんどありませんでした。

秀吉は本能寺の変を知ったとき何をしていたのか

秀吉は備中高松城で毛利方と戦っていました。信長の死を知ると、毛利氏との戦争を続けるのではなく、講和を成立させて軍を東へ返します。

この急速な帰還が、一般に中国大返しちゅうごくおおがえしと呼ばれています。

ただし、秀吉個人の判断力だけで説明する必要はありません。すでに中国方面で大軍を指揮していたこと、毛利氏と講和できたこと、軍団として移動・補給する仕組みを持っていたことなど、複数の条件が素早い転進を可能にしました。

なぜ秀吉は光秀討伐の中心になれたのか

大きかったのは、秀吉が他の有力家臣より早く畿内へ大軍を戻すことができたことです。

しかも秀吉には「信長を討った光秀を倒す」という明確な政治的名分がありました。信長の家臣たちにとって、光秀は主君を討った人物です。

光秀討伐の軍の中心に立つことで、秀吉は軍事的な勝敗だけでなく、織田家臣団の中で強い政治的位置を得ることができました。

山崎の戦いで何が決まったのか

1582年6月、秀吉軍と光秀軍は京都南西の山崎周辺で戦いました。

光秀は秀吉軍に敗れ、明智氏による政権掌握の試みは短期間で崩れました。この勝利によって、秀吉は信長の死後の政局で一気に有力な存在となります。

ただし、ここで秀吉の天下統一が決まったわけではありません。織田家には信長の子や孫が残り、柴田勝家など秀吉以外の有力家臣も大きな勢力を持っていました。

山崎で勝てば秀吉が信長の後継者になったのか

まだ決まっていません。次に問題になるのは、誰を織田家の後継者とするのか、信長の旧領を誰が管理するのか、家臣団の主導権を誰が握るのかという点です。

山崎の勝利は、秀吉が信長の後継者に確定した完成点ではなく、その後の後継者争いで大きく有利な位置を得た出発点でした。

この先、清洲会議、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦いを通じて、秀吉の優位がさらに固まっていきます。

このページで覚えたい流れ

1582年 羽柴秀吉が備中高松城を攻撃 → 明智光秀が軍を京都へ向ける → 本能寺の変 → 信長・信忠が死亡 → 織田政権に大きな権力の空白が生じる → 秀吉が毛利氏と講和 → 中国方面から畿内へ急速に帰還 → 山崎の戦いで秀吉が光秀を破る → 秀吉が信長死後の政局で大きな主導権を得る → ただし織田家の後継者争いは続く

Review

入試で押さえるポイント

  • 1582年、明智光秀が本能寺で織田信長を襲撃し、信長と嫡男信忠が死亡
  • 本能寺の変の動機を一つの説で確定事項として覚えない
  • 本能寺の変当時、羽柴秀吉は毛利氏と備中高松城で戦っていた
  • 秀吉は毛利氏と講和し、いわゆる中国大返しによって畿内へ帰還
  • 1582年の山崎の戦いで秀吉が明智光秀を破る
  • 山崎の勝利で秀吉は政治的優位を得たが、信長の後継者や天下統一が確定したわけではない

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  1. 問1

    本能寺の変では信長だけでなく嫡男信忠も死亡したため、単純な当主交代では済まない大きな後継・政権問題が生じた。

  2. 問2

    明智光秀が本能寺の変を起こした動機は、現在では一つの原因に確定されている。

  3. 問3

    中国大返しは秀吉個人の判断力だけで可能になったもので、大軍の指揮・毛利氏との講和・移動や補給の仕組みは関係しなかった。

  4. 問4

    山崎の戦いで光秀を破ったことは、秀吉に『信長の仇を討った有力家臣』という政治的な優位を与えた。

  5. 問5

    山崎の戦いに勝利した時点で秀吉は信長の唯一の後継者に確定し、その後の織田家内部の争いはなくなった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 本能寺の変で織田信長が死去する
  2. 山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破る

Sources

参考資料

  1. 家康の生涯 年表国立公文書館

    1582年の本能寺の変で織田信長・信忠が死亡した年代と、その後の政局を確認

  2. 備中高松城跡 保存管理計画岡山市

    1582年の高松城攻防、本能寺の変後の毛利氏との講和と秀吉の東進を確認

  3. 明智光秀と亀山城亀岡市

    本能寺・二条御所への攻撃と本能寺の変後の光秀の動きを確認

  4. 本能寺の変後の徳川家康と羽柴秀吉国立公文書館

    山崎の戦い後も後継者争いが続き、1583年の賤ヶ岳へ接続することを確認