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戦国時代1567〜1577年を中心に政治・外交重要度 A

安土城・楽市政策―信長は城と都市をどう政治・経済の中心へ変えたのかあづちじょうらくいちせいさく のぶながはしろととしをどうせいじけいざいのちゅうしんへかえたのか

一言でいうと

織田信長は、城を戦争のための要塞として使うだけでなく、家臣・商人・職人・交通・市場を集める政治と経済の拠点として整備しました。その代表が1576年に築城を始めた安土城と、その城下町です。1577年の安土山下町中掟書では楽市楽座をはじめ、商人の往来、税負担、治安など城下町の運営を定めました。ただし、楽市楽座は信長が初めて発明した政策ではなく、安土城下町も何もない場所に一からつくられた都市ではありません。既存の集落・道路・港などを利用しながら、人と物を城下へ集中させる仕組みを強めたことが重要です。

なぜ信長は岐阜から安土へ本拠を移したのか

1567年、信長は美濃を攻略し、稲葉山城を岐阜城と改めて本拠としました。翌1568年には足利義昭を奉じて上洛し、京都・畿内の政治へ進出します。

その後、近江支配を固めると、1576年に近江の安土で新しい居城の築城を始めました。安土は京都に近い一方、琵琶湖水運や街道にも接続できる位置にありました。

安土城は信長個人の豪華な住居というだけではありません。京都・畿内と東国を結び、近江の地域支配や交通を掌握する政治的な拠点として位置づけられます。

安土城は従来の城と何が違ったのか

戦国時代の城は、それ以前から領主の居館、軍事拠点、地域支配の中心として発達していました。したがって安土城から突然「城の役割」が変わったわけではありません。

それでも安土城は、大規模な石垣、壮大な天主、山中に配置された家臣の屋敷などを備え、信長の政治的権威を強く示す城となりました。

城は敵から身を守るだけの要塞ではなく、支配者の権威を目に見える形で示し、家臣団や政治機能を集める場所でもありました。この性格は、その後の豊臣秀吉の大坂城や近世の城郭・城下町へつながっていきます。

安土城下町は一からつくられたのか

そうではありません。安土周辺には築城以前から集落や道路、寺社、港などが存在していました。とくに常楽寺など中世以来の集落は琵琶湖水運とも結びついていました。

信長の城下町建設では、こうした既存の集落や交通網が利用されました。古い町をすべて破壊して新しい都市を一から設計したわけではありません。

既存の地域社会を利用しながら、城を中心に人や物の流れを組み替えていった点に、安土城下町の特徴があります。

楽市楽座とは何だったのか

楽市楽座は、市場や商工業に関わる既存の特権や参入制限を緩和し、人や商業活動を城下へ集める政策として理解します。信長は美濃を支配した1567年にも、岐阜で楽市政策を進めました。

ただし、楽市楽座そのものを信長が初めて考案したわけではありません。戦国期には他の大名にも先行する例があります。

重要なのは「信長が楽市楽座を発明した」ということではなく、領国支配や城下町形成の中で、この政策を積極的に利用したことです。

1577年の安土山下町中掟書には何が書かれていたのか

1577年、信長は安土城下町に対して13か条からなる安土山下町中掟書あづちさんげちょうちゅうおきてがきを出しました。

そこでは城下を楽市とし、座の特権を認めないことや、城下町住民に対するさまざまな課役の免除などを定めました。

さらに、中山道を往来する商人に安土へ宿泊するよう求めたり、近江国内の馬の売買を安土へ集めたりする規定もありました。単に商売を自由化するだけでなく、商人や取引を安土へ引き寄せる政策でもありました。

なぜ商人を城下町へ集めたかったのか

城には多数の武士やその家族が暮らし、武器・衣服・食料・建築資材など多くの商品が必要になります。商人や職人が集まれば市場が発達し、城下町全体の経済活動も活発になります。

さらに交通路を城下へ通せば、人だけでなく商品や情報も集まります。

家臣を城の周囲へ集め、商工業者を呼び込み、街道や港を通る物流を城下へ導くことは、政治・軍事・経済を一つの拠点へ集中させることにつながりました。

「自由な市場」なのに商人を安土へ集めたのか

ここが楽市政策を理解するうえで重要です。楽市という言葉から、現代の自由市場のように「支配者が何も介入しない市場」を想像すると実態から離れます。

信長は座などの既存特権を認めず城下への参入を促す一方で、商人に安土への宿泊を求めたり、特定の商品取引を安土へ集めたりしました。

一部の古い制約を取り除く一方、新しい支配者が市場や交通のルールを定めています。楽市楽座は単なる「経済の自由化」ではなく、戦国大名が城下町へ人・物・商業を集める都市政策の一部として理解する方が適切です。

安土は「近世城下町の完成形」だったのか

そこまで単純には言えません。安土城と城下町には、壮大な天主、石垣造りの城、楽市政策、家臣・商人の集住など、後の近世城下町へつながる特徴が見られます。

一方で、城下町には築城以前からの集落・道路・地域社会も残されていました。

したがって安土を「中世社会を完全に壊して突然近世都市を完成させた場所」と考える必要はありません。中世以来の地域秩序を利用しながら、新しい城郭・都市・市場政策が重ねられていった移行期の都市として捉えます。

安土城と楽市政策から何が見えるのか

信長の支配では、城・家臣団・市場・道路・港が別々に存在していたわけではありません。安土城に政治的な中心を置き、その周囲に家臣や商工業者を集め、街道や琵琶湖水運を通じて人や商品を城下へ引き寄せました。

これは、軍事力だけで領土を押さえる支配から、都市と流通まで含めて地域を統合する支配へ進んでいたことを示しています。

ただし、その方法は過去との完全な断絶ではありません。既存の港・道路・集落・商業活動を利用し、それらを新しい政治拠点である城の周囲へ再編していったことが重要です。

このページで覚えたい流れ

1567年 信長が美濃を支配して岐阜を本拠とし楽市政策を進める → 1568年 上洛して中央政治へ進出 → 近江支配を拡大 → 1576年 安土城築城開始 → 城下町の整備を進める → 1577年 安土山下町中掟書 → 楽市・座特権の否定・課役免除などを実施 → 街道を通る商人や商品取引を安土へ集中 → 安土が政治・交通・商業を結ぶ拠点となる

Review

入試で押さえるポイント

  • 1576年、織田信長が近江で安土城の築城を開始
  • 1577年、安土山下町中掟書を出して楽市楽座などの都市政策を実施
  • 楽市楽座を信長だけの独創政策としない
  • 安土山下町中掟書は座特権の否定・課役免除だけでなく、商人や取引を安土へ集める規定も持つ
  • 安土城下町は既存の集落・道路・港などを利用して形成された
  • 安土を中世社会との完全な断絶や近世城下町の完成形として単純化しない

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    安土城が築かれる以前の城は軍事要塞だけであり、領主の居館や地域支配の中心としての役割は持っていなかった。

  2. 問2

    楽市楽座は信長が初めて発明した政策で、それ以前の戦国大名には類例がなかった。

  3. 問3

    安土山下町中掟書には、座特権の否定や課役免除だけでなく、商人の宿泊や馬取引などを安土へ集める規定もあった。

  4. 問4

    楽市は支配者が市場や交通へ一切介入しない、現代的な自由放任市場を意味した。

  5. 問5

    安土城下町は既存の集落・道路・港などを利用しながら、人や物の流れを城下へ再編して形成された。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 織田信長が岐阜で楽市令を出す
  2. 織田信長が安土城の築城を始める
  3. 織田信長が安土山下町中掟書を出す

Sources

参考資料

  1. 安土山下町中掟書文化遺産オンライン

    1577年の安土楽市令、座特権の否定、課役免除、中山道商人の宿泊や馬取引など城下町政策を確認

  2. 安土城跡文化遺産オンライン

    1576年の安土城築城開始と安土城の位置づけを確認

  3. 幻の安土城復元プロジェクト調査整備資料滋賀県

    安土城下町が既存集落・道路・港などを取り込みながら形成されたこと、琵琶湖水運と城下町の関係を確認