信長の上洛と室町幕府の終焉―足利義昭との協調はなぜ対立へ変わったのか
一言でいうと
1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭は室町幕府15代将軍となりました。この時点で信長が最初から幕府を滅ぼそうとしていたと考える必要はありません。義昭には足利将軍としての権威と幕府の政治機構があり、信長には京都と畿内の秩序を軍事的に支える力がありました。両者はそれぞれの力を必要として政権を動かします。しかし、幕府政治への信長の関与が強まり、政治判断を誰が主導するのかをめぐる対立が深まった結果、1573年に義昭は京都から追放されます。これを室町幕府終焉の大きな節目とします。
義昭はなぜ信長の力を必要としたのか
1565年、13代将軍足利義輝が殺害されると、その弟の足利義昭は将軍就任を目指して各地の大名に支援を求めました。
義昭には足利氏の一員として将軍になる資格と権威がありましたが、自力で京都を制圧する軍事力はありません。一方、尾張・美濃を支配した織田信長は、京都へ軍を進められる有力な戦国大名になっていました。
そこで1568年、信長は義昭を奉じて上洛します。信長の軍事力によって京都周辺の敵対勢力が排除され、義昭は15代将軍に就任しました。
義昭は信長の「傀儡」だったのか
単純にそう考えるのは適切ではありません。
義昭は将軍になると、幕臣を組織し、所領争いの裁定や権利の安堵など、従来の室町幕府が担ってきた政治を再び行いました。将軍として独自に大名や寺社などと交渉する力も持っていました。
一方の信長は、強力な軍事力を背景に京都・畿内の秩序を支え、義昭政権の成立と存続に欠かせない存在でした。
つまり当初の政権は、「将軍義昭の権威」と「信長の軍事力」が組み合わされて成り立っていました。義昭を名目だけの将軍、信長を最初から唯一の支配者と考えると、この時期の政治を単純化しすぎることになります。
なぜ協調関係が崩れていったのか
問題になったのは、二人がともに中央政治へ影響力を持っていたことです。
1569年には信長が殿中御掟を示し、幕府内部の政治運営について一定のルールを定めました。さらに1570年には信長と義昭の関係を定める条項が追加され、信長が幕府政治へ強く関与する姿勢が明確になります。
ただし、これだけで「信長が義昭からすべての権力を奪った」と考える必要はありません。義昭の幕府も引き続き政治機能を持っていました。
そのため、将軍がどこまで独自に政治を行うのか、信長がどこまで幕府政治へ関与するのかという役割の重なりそのものが、両者の対立を生みやすくしました。
「信長包囲網」を義昭がつくったのか
1570年以降、信長は浅井氏・朝倉氏、本願寺など複数の勢力と戦うことになります。義昭も次第に信長と対立し、各地の大名との連絡を通じて反信長勢力との関係を強めました。
しかし、すべての反信長勢力を義昭が一つの計画で動かしたと考え、「義昭が信長包囲網を完成させた」と単純化するのは避けます。
浅井・朝倉、本願寺などにはそれぞれ独自の政治的・軍事的事情がありました。義昭の働きかけは重要ですが、各勢力の利害が重なって信長を取り巻く戦争が広がったと見る方がよいでしょう。
1573年に何が終わったのか
1573年、義昭は信長に対して兵を挙げます。一度は和睦したものの、7月には山城の槇島城に立てこもり、再び信長と戦いました。
信長軍に敗れた義昭は京都から退去します。義昭を中心として京都で機能していた室町幕府はここで失われたため、1573年を一般に室町幕府の終焉とします。
ただし、義昭本人の政治活動や足利将軍としての権威が1573年に即座に消滅したわけではありません。その後も各地の大名と連絡しながら政治活動を続けました。
したがって1573年は、「足利義昭という人物の政治的影響が完全に消えた年」ではなく、京都を拠点として続いてきた室町幕府の政治体制が終わった節目として理解します。
このページで覚えたい流れ
足利義輝が殺害され義昭が将軍就任を目指す → 1568年 信長が義昭を奉じて上洛 → 義昭が15代将軍となる → 将軍の権威・幕府機構と信長の軍事力が結びついて政権を運営 → 信長の幕府政治への関与が強まる → 義昭との政治的対立が拡大 → 義昭が反信長勢力との関係を強める → 1573年 義昭が挙兵 → 槇島城で敗北し京都から退去 → 室町幕府終焉
Review
入試で押さえるポイント
- 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、義昭が15代将軍に就任
- 義昭を最初から信長の単なる傀儡だったと考えない
- 義昭の将軍権威・幕府機構と信長の軍事力が相互に必要だったこと
- 殿中御掟などを通じて信長の幕府政治への関与が強まり、両者の対立が進行
- 1573年、信長が義昭を京都から退去させたことを室町幕府終焉の基準とする
- 1573年以後も義昭の政治活動や将軍権威の影響が即座に完全消滅したわけではない
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- 問1
1568年に信長が義昭を奉じて上洛した時点で、信長は最初から室町幕府を滅ぼすことだけを目的としていた。
当初は義昭の将軍権威・幕府機構と信長の軍事力が相互に必要で、両者は協調して政権を動かしました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
足利義昭は将軍就任後も所領争いの裁定や権利の安堵などを行い、独自の政治機能を持っていた。
義昭は幕臣を組織し、従来の室町幕府が担ってきた政治を再び行っており、単なる名目的な将軍ではありませんでした。
本文の該当箇所を確認する - 問3
殿中御掟が示されたことで、義昭はただちにすべての政治権力を失い、幕府は機能しなくなった。
信長の幕府政治への関与は強まりましたが、義昭の幕府も引き続き政治機能を持っていました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
浅井・朝倉・本願寺など反信長勢力は、すべて義昭の一つの計画と命令だけで動いていた。
義昭の働きかけは重要でしたが、各勢力には独自の政治・軍事事情があり、複数の利害が重なって反信長戦争が広がりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1573年は京都を拠点とする室町幕府の政治体制が終わる節目だが、義昭本人の政治活動や将軍権威が即座に完全消滅した年ではない。
義昭は京都退去後も各地の大名と連絡し、政治活動を続けました。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 足利義昭・織田信長と京郊の在地社会―曇華院領山城国大住庄を事例として国立国会図書館サーチ
1568〜1573年の義昭在京期を、義昭と信長が相互補完的に政権運営した時期として捉える研究動向を確認
- 戦国時代に織田信長が定めた「殿中御掟」という文書の原文、読み下し、解説が載った資料はありますか。国立国会図書館 レファレンス協同データベース
1569年の殿中御掟の史料と、信長・義昭関係を考えるための文献を確認
- 信長朱印状(永禄13年1月23日付 五カ条から成る条書)の実物写真が掲載されている資料を探している国立国会図書館 レファレンス協同データベース
1570年の五カ条の条書と、その後の信長・義昭関係を確認
- 平成22年度秋季特別展『室町最後の将軍―足利義昭と織田信長―』滋賀県文化財保護協会
義昭の将軍就任、信長との協調と対立、京都退去後の政治活動までの全体像を確認
