1333年の幕府滅亡―足利高氏・新田義貞はなぜ幕府を倒せたのか
一言でいうと
1333年、鎌倉幕府は滅亡しました。しかし後醍醐天皇が挙兵しただけで一気に倒れたのではありません。楠木正成らの抵抗が続くなかで後醍醐天皇が隠岐を脱出し、幕府軍として西国へ派遣された足利高氏が離反して六波羅探題を攻略し、関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻めました。幕府は複数の反乱を同時に抑えられず、さらに有力御家人まで離反したことで、京都と鎌倉の支配拠点を相次いで失いました。1333年を一人の武将の勝利ではなく、幕府を支える軍事的・政治的関係が各地で崩れた結果として理解します。
幕府は1333年の初めから滅亡寸前だったのか
そう単純ではありません。1331年の元弘の乱では幕府は笠置山を攻略し、後醍醐天皇を捕らえました。1332年には後醍醐天皇を隠岐へ配流し、倒幕運動を鎮圧したように見えました。
幕府には全国の御家人を動員する力も残っており、軍事的に完全に崩壊していたわけではありません。「元寇後に弱くなり、そのまま何もできず1333年に滅亡した」と説明するのは不十分です。
重要なのは、幕府が各地の反乱鎮圧へ軍勢を送り続けるなかで、その命令に従うはずの有力武士まで離反し、支配関係そのものが急速に崩れていったことです。
楠木正成の抵抗にはどんな意味があったのか
後醍醐天皇が捕らえられた後も倒幕運動は終わりませんでした。その中心人物の一人が楠木正成です。正成は河内を拠点として抵抗を続け、1333年には千早城に立てこもりました。
幕府は千早城を攻めるため多くの軍勢を送りましたが、険しい地形を利用した抵抗を短期間で排除できませんでした。ただし、楠木正成が千早城だけで幕府を滅ぼしたわけではありません。
抵抗が続く間も幕府は兵力と時間を反乱鎮圧へ投入し続け、その間に後醍醐天皇の隠岐脱出や各地の挙兵が広がりました。一つの抵抗拠点をすぐに制圧できなかったことが、倒幕運動が拡大する時間を生んだ点が重要です。
後醍醐天皇が隠岐を脱出すると何が変わったのか
1333年、後醍醐天皇は配流先の隠岐を脱出し、伯耆の船上山などを拠点として再び倒幕を呼びかけました。
幕府にとってこれは大きな問題でした。後醍醐天皇を隠岐へ流すことで元弘の乱を終わらせたはずなのに、その本人が再び政治・軍事活動の中心へ戻ったからです。
楠木正成らの抵抗も続いていたため、後醍醐天皇の復帰によって各地の反幕府勢力が結びつく政治的な中心が再び生まれました。
足利高氏はもともと幕府側ではなかったのか
もともとは幕府側です。足利高氏、のちの足利尊氏は、源氏の名門である足利氏の当主で、鎌倉幕府の有力御家人でした。1333年、幕府は倒幕勢力を鎮圧するため高氏を西国へ派遣します。
ところが高氏は幕府に反旗を翻し、後醍醐天皇側へ転じました。これは敵が外から増えたというだけではありません。幕府が反乱鎮圧のために送り出した有力御家人が、その軍事力ごと反幕府側へ移ったことを意味します。
高氏が離反した理由を、御家人の窮乏や北条氏への個人的反感など一つの原因だけで説明することは避けます。重要なのは、幕府を支えるはずだった最有力級の御家人が幕府の命令に従わなくなったという政治的・軍事的事実です。
六波羅探題が落ちたことはなぜ重要なのか
足利高氏は京都で後醍醐天皇側の勢力とともに六波羅探題を攻撃し、これを陥落させました。
六波羅探題は1221年の承久の乱後に幕府が京都へ置いた重要機関で、朝廷との交渉、京都周辺の治安、西国の御家人統制などに関わりました。
その六波羅が失われたことで、幕府は朝廷に対する京都の拠点と西国支配の重要な政治・軍事拠点を失います。承久の乱以来の幕府優位を支えてきた仕組みが崩れたことを示す事件でした。
六波羅が落ちても、まだ鎌倉幕府は残っていたのか
六波羅探題が滅亡しても、幕府の本拠地である鎌倉は残っていました。そこで決定的になるのが東国での新田義貞の挙兵です。
新田氏は上野国を基盤とする武士で、1333年に義貞が幕府に反旗を翻し、関東の武士を集めながら鎌倉へ向かいました。
倒幕運動は、京都・西国で六波羅を攻める動きと、関東で鎌倉そのものを攻める動きの両方を持つことになりました。幕府は京都だけでなく、自らの本拠地まで直接防衛しなければならなくなります。
なぜ鎌倉は攻め落とされたのか
鎌倉は三方を山、一方を海に囲まれ、切通など限られた交通路を防御に利用できる都市でした。新田軍と幕府軍は鎌倉周辺の各所で戦い、幕府側の防衛線が破られていきました。
新田義貞が稲村ヶ崎で黄金の太刀を海へ投じると潮が引き、軍勢が海岸から進入したという有名な説話も伝えられていますが、この話だけで鎌倉陥落を説明する必要はありません。
その時点で幕府は、千早城への対応、各地の反乱、六波羅探題の喪失、足利高氏の離反など複数の危機を同時に抱えていました。鎌倉だけを守ればよい状況ではなかったことが重要です。
北条高時は最後にどうなったのか
新田義貞の軍勢が鎌倉へ進入すると、北条氏を中心とする幕府側は追い詰められました。最後の得宗である北条高時ら北条一門は、北条氏の氏寺である東勝寺へ退きます。
1333年5月、北条高時をはじめ多くの北条一門・幕府方の人々が東勝寺で自害し、鎌倉幕府は滅亡しました。
東勝寺跡は鎌倉幕府滅亡に関わる重要な遺跡ですが、近くの「腹切りやぐら」が北条高時本人の自害場所だったと断定することは避けます。
なぜ長く続いた幕府が短期間で崩れたのか
1333年だけを見ると幕府は数か月のうちに急速に崩れましたが、その前には蒙古襲来後の御家人問題、得宗を中心とする政治、悪党をめぐる在地社会の変化、皇位継承への幕府の関与、後醍醐天皇の倒幕運動など長い変化がありました。
ただし、これらを「幕府がだんだん弱くなったので自然に滅んだ」とまとめるのも不十分です。1333年に決定的だったのは、幕府が武士を動員する支配関係が崩れたことでした。
楠木正成らを倒しきれず、後醍醐天皇が復帰し、足利高氏が離反し、新田義貞も挙兵します。幕府が命令すれば有力武士が従うという前提そのものが崩れていったのです。
すべての御家人が幕府を見限ったのか
そうではありません。最後まで幕府側として戦った武士も多数いました。また倒幕側に加わった武士の目的も、後醍醐天皇への支持、地域の利害、所領問題、有力武将との関係、戦況への判断など一様ではありません。
「御家人全員が幕府に不満を持ち、一斉に裏切った」と理解するのではなく、幕府が武士たちを一つの政権の下にまとめ続けることができなくなったと捉えます。
足利高氏と新田義貞の役割はどう違うのか
足利高氏は幕府軍として西国へ派遣された後に離反し、京都の六波羅探題を攻め落としました。新田義貞は関東で挙兵し、幕府本拠地の鎌倉を攻略しました。
つまり高氏は幕府の京都・西国支配を崩した人物、新田義貞は鎌倉を直接攻略した人物として整理すると分かりやすくなります。
どちらか一人だけで幕府を倒したのではありません。後醍醐天皇、楠木正成、護良親王ら各地の勢力の活動も含め、複数の倒幕運動が同時進行するなかで高氏の離反と義貞の鎌倉攻略が決定的な打撃となりました。
鎌倉幕府が滅亡すると武家政権も終わったのか
終わりません。1333年に終わったのは鎌倉幕府です。後醍醐天皇は京都へ戻り、自ら政治を主導する建武の新政を始めます。
しかし、幕府を倒すうえで大きな軍事力を持った足利高氏をはじめ、多くの武士も新しい政治秩序のなかに存在していました。そのため「鎌倉幕府滅亡=武士の時代の終わり」ではありません。
ここから後醍醐天皇の新政と武士たちの政治的要求がどう折り合うのかという新しい問題が始まり、建武の新政の崩壊、足利尊氏の離反、南北朝の動乱、室町幕府成立へつながります。
このページで覚えたい流れ
1332年、後醍醐天皇が隠岐へ配流される → 楠木正成らの抵抗が続く → 1333年、楠木正成が千早城で幕府軍に抵抗する → 後醍醐天皇が隠岐を脱出する → 倒幕運動が再び拡大する → 幕府が足利高氏を西国へ派遣する → 高氏が幕府から離反する → 高氏らが六波羅探題を攻め落とす → 幕府が京都・西国の重要拠点を失う → 関東で新田義貞が挙兵する → 新田軍が鎌倉へ進む → 北条高時らが東勝寺へ退く → 北条一門が自害する → 1333年、鎌倉幕府滅亡 → 後醍醐天皇による建武の新政へ
幕府滅亡を一つの戦いだけで説明せず、各地の抵抗、後醍醐天皇の復帰、有力御家人の離反、京都と鎌倉の相次ぐ陥落が連鎖した結果として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出し、倒幕運動が再び拡大した
- 楠木正成は千早城で幕府軍に抵抗し、幕府は反乱を短期間で鎮圧できなかった
- 足利高氏は当初幕府側として派遣されたが離反し、六波羅探題を攻略した
- 新田義貞は関東で挙兵し、鎌倉を攻略した
- 北条高時ら北条一門が東勝寺で自害し、1333年に鎌倉幕府が滅亡した
- 幕府滅亡を御家人全体の一斉離反とはせず、複数の反乱と有力武士の離反によって軍事的支配関係が崩れた結果と理解する
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
鎌倉幕府は1333年の初めにはすでに全国の御家人を動員する力を完全に失い、軍事的にほぼ消滅していた。
幕府はなお大きな動員力を持っていました。決定的だったのは、反乱鎮圧の過程で足利高氏など有力武士まで離反し、支配関係が急速に崩れたことです。
本文の該当箇所を確認する - 問2
足利高氏は当初、倒幕勢力を鎮圧する幕府軍として西国へ派遣されたが、その後幕府から離反した。
高氏は鎌倉幕府の有力御家人であり、幕府軍として派遣された後に後醍醐天皇側へ転じました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
六波羅探題の陥落は、幕府が京都での朝廷対応と西国支配の重要な政治・軍事拠点を失ったことを意味した。
六波羅探題は承久の乱後の京都・西国支配を支える重要機関で、その喪失は幕府の支配構造に大きな打撃となりました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
鎌倉が陥落した理由は、新田義貞が稲村ヶ崎で太刀を海へ投じた結果だけで説明できる。
稲村ヶ崎の説話だけでなく、千早城への対応、各地の反乱、六波羅探題の喪失、足利高氏の離反など複数の危機が重なっていました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1333年に鎌倉幕府が滅亡したことで、武士が政治に大きな力を持つ時代も終わった。
終わったのは鎌倉幕府であり、足利高氏をはじめ武士勢力はその後の建武の新政・南北朝・室町幕府成立にも大きく関わりました。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
