持明院統・大覚寺統と皇位継承問題―なぜ幕府が皇位継承に関わったのか
一言でいうと
鎌倉時代後期、皇統は後深草天皇の子孫である持明院統と、亀山天皇の子孫である大覚寺統に分かれ、皇位継承をめぐって競合するようになりました。対立には皇位だけでなく、院政を主導する立場や皇室領の継承も関わりました。両統は自分たちに有利な継承を求めて幕府にも働きかけ、幕府は次第に調停へ関与します。ただし、幕府が皇統を二つに分裂させて一方的に天皇を選んだのではありません。皇統内部に生じた継承争いに幕府が関与を深め、その関与自体が政治問題になったと理解します。
なぜ皇統が二つに分かれたのか
出発点となるのは後嵯峨上皇の子どもたちです。兄の後深草天皇は父の意向によって弟の亀山天皇へ譲位し、さらに皇位は亀山天皇の皇子・後宇多天皇へ継承されました。
1272年に後嵯峨上皇が亡くなると、どちらの子孫を中心に皇位を継承していくのかが大きな問題となります。後深草天皇の子孫は持明院統、亀山天皇の子孫は大覚寺統と呼ばれ、二つの皇統が形成されていきました。
持明院統と大覚寺統は別々の朝廷だったのか
この段階で二つの国家や二つの朝廷が存在したわけではありません。どちらも後嵯峨天皇の子孫であり、同じ天皇家内部の二つの系統です。
鎌倉時代後期には、一つの朝廷の皇位を二つの皇統が競って継承している状態でした。南朝と北朝という二つの朝廷が実際に並立する南北朝時代とは区別します。
なぜ皇位だけでなく院政や皇室領も重要だったのか
平安時代後期から鎌倉時代には、天皇が退位した後も上皇として政治を主導する院政が行われていました。退位後に王家の家長として政治を主導する人物は治天の君と呼ばれます。
また、上皇や天皇の政治・生活を支える皇室領の継承も重要でした。そのため両統の対立は「次の天皇を誰にするか」だけでなく、院政を主導する立場や皇室の経済基盤をどの系統が受け継ぐかという問題とも結びついていました。
なぜ鎌倉幕府が皇位継承に関わるようになったのか
本来、皇位継承は朝廷・天皇家の問題です。しかし鎌倉幕府は1221年の承久の乱後、六波羅探題を置くなど京都・朝廷への政治的影響力を強めていました。
皇位継承をめぐって対立した両統は、自分たちに有利な判断を得るため幕府にも働きかけます。幕府側にも朝廷内部の争いが激化して政治秩序が不安定になることを避けたい事情があり、皇位継承の調停へ関与するようになりました。
ただし、幕府が一方的に天皇を任命したと考えるのは正確ではありません。両統や朝廷内部の意向・交渉があり、その対立を調整する過程で幕府の判断が大きな意味を持つようになったと考えます。
両統迭立とは何なのか
皇位継承争いを調整するなかで、持明院統と大覚寺統の双方から皇位継承者を出す形が形成されました。これを一般に両統迭立と呼びます。
実際に、大覚寺統の後宇多天皇の後には持明院統の伏見天皇・後伏見天皇、大覚寺統の後二条天皇、持明院統の花園天皇、大覚寺統の後醍醐天皇というように、両統から天皇が出ました。
ただし、最初から「必ず一代ずつ交代する」という固定制度が一度に完成していたわけではありません。後嵯峨上皇の死後、両統と幕府との交渉や政治情勢の変化を経て、双方から皇位継承者を出す形が形成されていきました。
幕府の調停で対立は解決したのか
完全には解決しませんでした。両統から皇位継承者を出そうとしても、次は誰が即位するのか、皇太子は誰なのか、その次はどちらの皇統なのかという新たな問題が生じます。
さらに持明院統・大覚寺統それぞれの内部でも利害が常に一致していたわけではありません。両統迭立は対立を完全に解消する制度というより、交渉と調停によって競合を処理する仕組みでした。
幕府は調停者になることで朝廷政治への影響力を強めましたが、同時に皇位継承争いに深く関与し、その判断への不満も受ける立場になりました。
1317年の文保の和談とは何だったのか
皇位継承をめぐる対立が続くなか、1317年に幕府が仲介して継承問題を調整したのが文保の和談です。当時の天皇は持明院統の花園天皇で、大覚寺統では尊治親王、のちの後醍醐天皇が皇太子でした。
幕府は両統の主張を調整し、今後の皇位継承について一定の道筋をつけようとしました。ただし、文保の和談によって皇位継承争いが永久に解決したわけではありません。
大学受験ではまず「1317年、幕府が持明院統・大覚寺統の皇位継承を調停した」と押さえます。
1318年、後醍醐天皇が即位すると何が変わったのか
1318年、花園天皇が譲位し、大覚寺統の尊治親王が後醍醐天皇として即位しました。しかし、これによって皇位継承問題が解決したわけではありません。
大覚寺統内部でも後二条天皇の子である邦良親王への継承が重視され、さらにその先には持明院統への継承も問題となっていました。後醍醐天皇が即位したことと、自分の子孫が今後も皇位を継承できることは同じではありませんでした。
こうした皇位継承問題は、のちに後醍醐天皇と幕府の関係を考える重要な背景となります。ただし、皇位継承問題だけを後醍醐天皇の倒幕運動の単一原因とすることは避けます。
このページで覚えたい流れ
後嵯峨上皇の子に後深草天皇と亀山天皇がいる → 後深草天皇が亀山天皇へ譲位する → 皇位が亀山の子・後宇多天皇へ継承される → 1272年、後嵯峨上皇が死去する → 皇位・院政・皇室領の継承をめぐる問題が強まる → 後深草の子孫=持明院統、亀山の子孫=大覚寺統が形成される → 両統が幕府にも働きかける → 幕府が皇位継承の調停に関与する → 双方から皇位継承者を出す両統迭立の形が形成される → 対立はなお続く → 1317年、文保の和談 → 1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位する → 皇位継承問題は残り、後醍醐天皇と幕府の関係を考える背景となる
皇統分裂を幕府が一方的に作ったとはせず、王家内部の継承問題と、そこへ調停者として関与を深めた幕府との関係として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 後深草天皇の子孫が持明院統、亀山天皇の子孫が大覚寺統となった
- 皇統分裂は後嵯峨上皇死後の皇位・院政・皇室領の継承問題を背景として進み、幕府が最初から二つに分けたわけではない
- 両統から皇位継承者を出す形を両統迭立というが、最初から機械的な一代交代制度が完成していたとはしない
- 両統から調停を求められ、鎌倉幕府は皇位継承へ深く関与するようになった
- 1317年の文保の和談では、幕府が持明院統・大覚寺統の皇位継承問題を調停した
- 1318年に大覚寺統の後醍醐天皇が即位したが、皇位継承問題は残り、後の幕府との対立を考える背景となった
Check
理解度チェック
各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。
0 / 5 問回答
- 問1
持明院統と大覚寺統は、鎌倉時代後期から別々の国家と朝廷を持って並立していた。
この段階では同じ天皇家内部の二つの皇統が一つの皇位を競っており、南北朝時代の二朝並立とは区別します。
本文の該当箇所を確認する - 問2
持明院統・大覚寺統の分裂は、鎌倉幕府が最初から皇統を二つに分ける政策を命じたために起こった。
後嵯峨上皇死後の皇位・院政・皇室領をめぐる王家内部の継承問題が先にあり、幕府はその調停へ関与を深めました。
本文の該当箇所を確認する - 問3
両統迭立は、当初から持明院統と大覚寺統が必ず一代ずつ機械的に交代すると定めた固定制度だった。
両統と幕府の交渉や政治情勢の変化を経て双方から継承者を出す形が形成されましたが、最初から厳密な一代交代制度が完成していたわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1317年の文保の和談では、鎌倉幕府が持明院統・大覚寺統の皇位継承問題を仲介・調停した。
幕府は両統の主張を調整し、今後の皇位継承に一定の道筋をつけようとしましたが、争いが永久に解決したわけではありません。
本文の該当箇所を確認する - 問5
1318年に後醍醐天皇が即位しても皇位継承問題は残り、後の幕府との対立を考える背景の一つとなった。
後醍醐天皇の即位と、その子孫が継続して皇位を継げることは同じではなく、大覚寺統内部や持明院統との継承問題が残りました。
本文の該当箇所を確認する
Result
0 / 5 問正解
間違えた問題は解説と本文を確認してから、もう一度解いてみてください。
Timeline
関連する年表
前後の出来事とつなげて位置を確認できます。
Sources
