正中の変・元弘の乱―後醍醐天皇はなぜ倒幕を目指したのか
一言でいうと
1318年に即位した後醍醐天皇は、やがて自ら朝廷政治を主導し、鎌倉幕府と対立するようになりました。背景には、持明院統・大覚寺統の皇位継承を幕府が調停していたこと、後醍醐天皇自身の皇位継承上の位置づけ、自ら政治を主導しようとする姿勢など複数の事情がありました。1324年の正中の変では倒幕計画が問題となり、1331年の元弘の乱では後醍醐天皇自身が京都を離れて笠置山へ入り、幕府との武力衝突に進みます。いったん敗れて隠岐へ配流されても抵抗は終わらず、1333年の幕府滅亡へつながっていきました。
後醍醐天皇はどのような立場で即位したのか
1318年、大覚寺統の後醍醐天皇が即位しました。当時は持明院統と大覚寺統が皇位継承をめぐって競合し、鎌倉幕府がその調停に関与していました。
しかも大覚寺統内部では、後二条天皇の皇子である邦良親王が将来の皇位継承者として重要な位置にありました。後醍醐天皇は、即位したからといって自分の子孫がそのまま皇位を継承できる立場ではありませんでした。
ただし、この皇位継承問題だけを後醍醐天皇の倒幕運動の原因と考えるのは単純化しすぎです。
後醍醐天皇はいつ自ら政治を行うようになったのか
即位直後には父の後宇多上皇が院政を行いました。1321年に後宇多上皇が院政を停止すると、後醍醐天皇が自ら朝廷政治を主導するようになります。
ここで重要なのは、後醍醐天皇を最初から幕府打倒だけを目的とした人物と決めつけないことです。まず朝廷内部で自ら政治を主導し、その過程で皇位継承や公武関係を含む政治秩序との緊張が強まっていったと考えます。
なぜ幕府との対立へ進んだのか
鎌倉幕府は承久の乱後、六波羅探題を置くなど京都・朝廷への影響力を強め、鎌倉後期には持明院統と大覚寺統の皇位継承にも調停者として関わっていました。
一方、後醍醐天皇は1321年から自ら政治を行います。王家内部の皇位継承に幕府が大きな影響力を持つ状況と、天皇自身が朝廷政治を主導しようとする姿勢との間には緊張が生じました。
さらに後醍醐天皇の周囲では日野資朝・日野俊基らが活動します。ただし、皇位継承への不満や天皇親政という一つの理由だけで倒幕を説明せず、複数の政治的背景を考える必要があります。
1324年の正中の変では何が起きたのか
1324年、後醍醐天皇の側近である日野資朝・日野俊基らが関係した幕府打倒の計画が問題となりました。これを正中の変と呼びます。
幕府は資朝・俊基らを捕らえて取り調べ、資朝は佐渡へ流され、俊基はいったん釈放されました。後醍醐天皇自身は皇位にとどまります。
大学受験では一般に後醍醐天皇による最初の倒幕計画として整理しますが、後醍醐天皇の具体的な関与の程度などについては研究上の議論があります。そのため、正中の変を倒幕をめぐる動きが表面化した重要な事件として押さえます。
正中の変のあと、後醍醐天皇と皇位継承問題はどうなったのか
正中の変の後も後醍醐天皇は退位せず、自ら政治を続けました。
1326年には大覚寺統の皇太子・邦良親王が亡くなり、その後、持明院統の量仁親王、のちの光厳天皇が皇太子となります。後醍醐天皇が自分の子孫へ皇位を継承させる見通しはさらに難しくなりました。
一方で後醍醐天皇の周囲では幕府に対抗する動きが続きました。正中の変から元弘の乱までを、一度失敗した後に何も起きなかった期間と考えず、朝廷と幕府との緊張が継続した時期として捉えます。
1331年の元弘の乱は正中の変と何が違うのか
1331年、幕府打倒をめぐる動きが再び発覚すると、後醍醐天皇自身にも幕府の追及が及びました。天皇は京都を脱出し、神器を伴って笠置山へ入ります。
これによって幕府との対立は密かな計画の段階を越え、武力衝突へ進みました。これが元弘の乱の始まりです。
正中の変では計画が問題となっても後醍醐天皇自身は皇位に残りました。これに対して元弘の乱では、天皇自身が京都を離れ、幕府に対して武力で抵抗する段階へ進んだ点が重要です。
後醍醐天皇だけが幕府と戦ったのか
違います。後醍醐天皇の皇子である護良親王も倒幕運動を進め、河内では楠木正成が後醍醐天皇側に立って幕府軍へ抵抗しました。
元弘の乱は、天皇一人を捕らえれば終わる事件ではなくなっていきます。後醍醐天皇を支持する公家・僧侶・武士などが、それぞれ異なる場所で活動するようになりました。
ただし、1331年の時点ですべての武士が幕府に反旗を翻したわけではありません。幕府はなお大きな軍事力を持ち、後醍醐天皇側は苦戦しました。
後醍醐天皇はなぜ隠岐へ流されたのか
幕府は六波羅探題などを通じて軍勢を動員し、笠置山を攻撃しました。笠置山が陥落すると、後醍醐天皇は逃れた後に捕らえられます。
幕府は持明院統の光厳天皇を即位させ、1332年には後醍醐天皇を隠岐へ配流しました。幕府はこれによって朝廷の対立を収束させようとします。
しかし、護良親王や楠木正成らの抵抗は続きました。元弘の乱は後醍醐天皇の配流だけでは終わらなかったのです。
なぜ元弘の乱が幕府滅亡へつながったのか
各地で抵抗が続けば、幕府はそれを討つため軍勢を動員し続けなければなりません。後醍醐天皇が捕らえられても、倒幕運動を完全には鎮圧できませんでした。
1333年には後醍醐天皇が隠岐を脱出し、倒幕運動がさらに拡大します。楠木正成の抵抗、足利高氏の幕府離反、新田義貞の挙兵などが重なり、幕府は急速に崩れていきます。
したがって1333年の幕府滅亡は突然起きたのではなく、正中の変から元弘の乱へ続いた公武対立と各地の軍事行動の延長として理解します。
このページで覚えたい流れ
1318年、後醍醐天皇即位 → 持明院統・大覚寺統の皇位継承問題が続く → 1321年、後宇多上皇が院政を停止する → 後醍醐天皇が自ら政治を主導する → 幕府との政治的緊張が強まる → 1324年、正中の変 → 後醍醐天皇は皇位に残る → 幕府との緊張が続く → 1331年、後醍醐天皇が京都を脱出して笠置山へ入る → 元弘の乱 → 護良親王・楠木正成らも抵抗する → 幕府軍が笠置山を攻略する → 後醍醐天皇が捕らえられる → 1332年、隠岐へ配流される → それでも抵抗は終わらない → 1333年、後醍醐天皇が隠岐を脱出する → 倒幕勢力が拡大する → 鎌倉幕府滅亡へ
正中の変から元弘の乱への変化を、幕府打倒をめぐる政治的な動きから、後醍醐天皇自身を含む武力闘争への転換として理解します。
Review
入試で押さえるポイント
- 1318年に大覚寺統の後醍醐天皇が即位し、1321年から自ら政治を主導した
- 1324年の正中の変は大学受験では最初の倒幕計画として扱うが、後醍醐天皇の具体的関与には研究上の議論がある
- 1331年の元弘の乱では後醍醐天皇自身が京都を脱出して笠置山へ入り、幕府との武力衝突へ進んだ
- 元弘の乱では護良親王・楠木正成らも幕府へ抵抗した
- 1332年に後醍醐天皇は隠岐へ配流されたが、倒幕運動は終わらなかった
- 倒幕の背景を皇位継承問題だけに限定せず、親政、公武関係、周囲の政治・軍事勢力など複数の要因から理解する
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- 問1
後醍醐天皇は即位直後から一貫して単独で朝廷政治を主導したのではなく、1321年に後宇多上皇の院政が停止した後に自ら政治を主導するようになった。
1318年の即位直後は父の後宇多上皇が院政を行い、1321年の院政停止後に後醍醐天皇の親政が本格化しました。
本文の該当箇所を確認する - 問2
1324年の正中の変について、後醍醐天皇が計画の全内容を直接指揮したことは研究上も完全に確定している。
正中の変は倒幕をめぐる動きが表面化した重要事件ですが、後醍醐天皇の具体的関与の程度には研究上の議論があります。
本文の該当箇所を確認する - 問3
元弘の乱では後醍醐天皇自身が京都を離れて笠置山へ入り、正中の変よりも明確に幕府との武力衝突へ進んだ。
正中の変では後醍醐天皇は皇位に残りましたが、元弘の乱では天皇自身が京都を脱出し、武力抵抗の段階へ入りました。
本文の該当箇所を確認する - 問4
1332年に後醍醐天皇が隠岐へ配流されると、護良親王や楠木正成らの抵抗も終わり、倒幕運動はいったん完全に消滅した。
後醍醐天皇の配流後も護良親王・楠木正成らの抵抗は続き、1333年の倒幕運動拡大へつながりました。
本文の該当箇所を確認する - 問5
後醍醐天皇の倒幕運動は、持明院統・大覚寺統の皇位継承問題だけを原因として説明すれば十分である。
皇位継承問題は重要な背景ですが、後醍醐天皇の親政、公武関係、側近や各地の政治・軍事勢力など複数の要因を考える必要があります。
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Timeline
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Sources
参考資料
- 花園天皇宸翰御消息(八月廿五日)e国宝(国立文化財機構)
- 太平記絵巻:別冊歴史読本東京大学史料編纂所
- 花園天皇宸翰御消息〈後二月廿四日(御花押)〉文化遺産オンライン(文化庁)
