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平安時代1170年代を中心に1160年代後半〜1180年政治・外交重要度 A

平氏政権と後白河院の対立―なぜ協力関係は崩れたのかへいしせいけんとごしらかわいんのたいりつ なぜきょうりょくかんけいはくずれたのか

一言でいうと

平清盛と後白河院は最初から敵同士だったわけではありません。平治の乱後、清盛は後白河院を支える有力な軍事貴族として中央政界で地位を高め、平氏と皇室の婚姻関係も両者を結びつけました。しかし平氏一門が官職・知行国・荘園・婚姻などを通じて勢力を拡大すると、後白河院の院近臣や他の貴族との利害対立も大きくなります。1177年の鹿ケ谷事件で不信が深まり、1179年には清盛が武力を背景に多数の公卿・院近臣を排除して後白河法皇を幽閉しました。平氏が強大になったことが、そのまま政治の安定にはつながらなかったのです。

清盛と後白河院は最初から対立していたのか

いいえ。1159年の平治の乱後、後白河上皇は院政を進め、清盛はその政治を軍事面から支える有力者の一人となりました。清盛にとっても、院との関係は朝廷での昇進や平氏一門の勢力拡大に重要でした。

つまり、後白河院が武力を必要とする → 清盛が院を支える → 清盛が朝廷で昇進する → 平氏が中央政治で力を強める、という相互依存の関係がありました。後の対立だけを見て、清盛と後白河院が最初から敵だったと考えないことが重要です。

皇室との婚姻は両者をどう結びつけたのか

後白河上皇と、清盛の妻・平時子の妹である平滋子たいらのしげことの間には皇子が生まれました。この皇子が1168年に高倉天皇たかくらてんのうとして即位します。

さらに清盛の娘の平徳子が高倉天皇の后となりました。後白河院と平氏は、政治だけでなく皇室との親族関係によっても結びついていたのです。

それなのになぜ関係が悪化したのか

平氏一門が中央政界で大きくなりすぎたことが重要です。清盛だけでなく、一門の人々が公卿・国司などの官職へ進出し、知行国や荘園も大きな経済基盤となりました。

一方、後白河院の周囲には院近臣いんのきんしんと呼ばれる側近たちがいました。限られた官職・知行国・荘園などを誰が得るかは政治勢力にとって重要であり、平氏の勢力拡大は他の貴族や院近臣との利害対立を深めました。清盛個人と後白河個人の性格の不一致だけで説明しないことが重要です。

1176年―平滋子の死は何を変えたのか

1176年、平滋子が亡くなりました。滋子は後白河院の后である一方、清盛の妻・時子の妹でもあり、後白河院と平氏を親族関係で結ぶ重要な存在でした。

滋子の死だけで突然両者が敵対したわけではありませんが、双方につながる人物を失ったことは、すでに存在していた政治的緊張が表面化しやすくなる一つの条件となりました。

1177年―鹿ケ谷の陰謀とは何だったのか

1177年、後白河院の近臣である藤原成親ふじわらのなりちか、西光さいこう、僧の俊寛しゅんかんらが平氏打倒を相談したとされる事件が発覚しました。京都東山の鹿ケ谷にあった山荘で相談が行われたとされるため、鹿ケ谷の陰謀ししがたにのいんぼうと呼ばれます。

密告によって計画が発覚すると、清盛は関係者を処罰しました。西光は処刑され、藤原成親は流され、俊寛らも流罪となります。平氏に反対する院近臣が実際に存在したことは、平氏の勢力拡大が朝廷内部で強い不満を生んでいたことを示します。

後白河法皇自身も陰謀の中心だったのか

ここは断定しすぎない方がよい点です。『平家物語』などでは後白河法皇も平氏打倒の相談へ深く関わったように描かれますが、事件の具体的な計画がどの程度進んでいたのか、後白河院自身がどこまで直接関与していたのかは慎重に考える必要があります。

大学受験では、後白河院の近臣が平氏打倒を計画 → 発覚 → 清盛が関係者を処罰 → 後白河院と平氏の対立が深まる、という流れをまず押さえます。

鹿ケ谷事件で清盛は後白河院を倒したのか

まだ倒していません。清盛は後白河院の近臣を処罰しましたが、この時点では後白河院そのものを政治から完全に排除しませんでした。

つまり1177年に後白河院政が終了したわけではありません。両者の関係は悪化しましたが、その後も院政と平氏の権力は並存しました。この状態を押さえておくと、1179年の政変の意味が分かりやすくなります。

1179年―なぜ清盛はついに武力を使ったのか

1179年には清盛の嫡男である平重盛たいらのしげもりが亡くなり、平氏と関係の深い所領や知行国、人事をめぐって院側との対立も重なっていきます。

ただし、重盛が死んだから政変が起きた、一つの荘園をめぐる争いだけで清盛が怒った、と単純化しない方がよいでしょう。1177年以来の不信、官職・所領・知行国・摂関家人事などをめぐる対立が積み重なり、清盛が武力による大規模な政治介入へ踏み切ったと理解します。

治承三年の政変では何が起きたのか

1179年11月、清盛は福原から兵を率いて京都へ入り、後白河院側の公卿や院近臣を大量に解官・追放し、人事を平氏側に有利な形へ組み替えました。

さらに清盛は後白河法皇を鳥羽殿とばどのへ幽閉し、院政を停止させます。これを治承三年の政変じしょうさんねんのせいへんと呼びます。保元・平治の乱では武士が皇室・貴族内部の対立へ参加しましたが、1179年には清盛自身が軍事力を背景に朝廷人事を大規模に変更し、後白河院を政治の中心から排除しました。

これで清盛は朝廷を廃止したのか

廃止していません。清盛は天皇制や朝廷の官職をなくしたのではなく、むしろ朝廷の制度を利用して平氏側の人々を重要な地位へ配置しました。

後白河院を幽閉しても高倉天皇は存在し、翌1180年には高倉天皇から安徳天皇への皇位継承が行われます。清盛は朝廷の外から国家を倒したのではなく、朝廷内部で軍事力を背景に政治の主導権を強く握ったのです。

1180年―安徳天皇即位はなぜ重要なのか

1180年、高倉天皇が譲位し、幼い安徳天皇あんとくてんのうが即位しました。安徳天皇の母は清盛の娘・平徳子です。そのため清盛は天皇の母方の祖父である外祖父がいそふとなりました。

かつて藤原北家が天皇の外戚となることで政治的影響力を持ったのと似た構図ですが、平氏政権は摂関政治の単純な再現ではありません。清盛は軍事力、知行国、荘園、交易、一門の官職など多様な基盤を持ちながら、さらに天皇の外戚という立場を獲得しました。

平氏の権力はこれで最も安定したのか

むしろ逆でした。後白河法皇を武力で幽閉し、多くの公卿や院近臣を排除したことは平氏の権力を一時的には強くしましたが、これまで院政を支えていた政治勢力を平氏から遠ざけることにもなりました。

さらに安徳天皇の即位によって皇位継承から遠ざかった皇族にも不満が生まれます。その代表が以仁王もちひとおうです。1180年、以仁王は源頼政とともに平氏打倒を呼びかけて挙兵します。この挙兵自体は短期間で鎮圧されますが、その呼びかけが各地の源氏などの挙兵につながり、治承・寿永の内乱が始まっていきます。

このページで覚えたい流れ

平治の乱後、清盛と後白河院が協力する → 平氏が朝廷内で急速に成長する → 高倉天皇即位などを通じて平氏と皇室の結びつきが強まる → 官職・知行国・荘園などをめぐって院近臣や他の貴族との利害対立が拡大する → 1176年、平滋子が死去する → 1177年、鹿ケ谷の陰謀が発覚する → 藤原成親・西光・俊寛らが処罰される → 後白河院と平氏の不信が深まる → 1179年、平重盛が死去する → 人事・所領・知行国などをめぐる対立が重なる → 清盛が兵を率いて京都へ入る → 院近臣・公卿を大量に解官・追放する → 後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉する → 院政が停止される → 1180年、安徳天皇即位 → 清盛が天皇の外祖父となる → 平氏の権力が頂点に達する一方、反発も拡大する → 以仁王・源頼政の挙兵 → 治承・寿永の内乱へ

Review

入試で押さえるポイント

  • 平清盛と後白河院は最初から敵対していたのではなく、平治の乱後は協力関係があった
  • 1177年の鹿ケ谷の陰謀では藤原成親・西光・俊寛ら後白河院の近臣が平氏打倒を計画したとして処罰された
  • 鹿ケ谷事件で後白河院政が終了したわけではなく、決定的な転換は1179年の治承三年の政変
  • 治承三年の政変で清盛は多数の公卿・院近臣を排除し、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉して院政を停止した
  • 清盛は朝廷を廃止したのではなく、朝廷の制度・官職・皇位継承を利用しながら権力を集中させた
  • 1180年、安徳天皇が即位して清盛は外祖父となったが、平氏の権力集中は反発を強め、以仁王の挙兵から治承・寿永の内乱へつながった

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    平清盛と後白河院は平治の乱後から一貫して敵対し、協力関係を持たなかった。

  2. 問2

    清盛と後白河院の対立は、二人の個人的な性格の不一致だけで説明できる。

  3. 問3

    鹿ケ谷の陰謀では、後白河法皇本人が計画の中心人物だったことが確定している。

  4. 問4

    1177年の鹿ケ谷事件の時点では後白河院政は終わらず、1179年の治承三年の政変で清盛が後白河法皇を幽閉して院政を停止させた。

  5. 問5

    治承三年の政変後も清盛は朝廷や皇位継承を廃止せず、既存の制度を利用しながら政治の主導権を強めた。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 鹿ケ谷の陰謀が発覚する
  2. 平清盛が後白河法皇を幽閉する
  3. 平清盛が太政大臣となる
  4. 以仁王・源頼政が挙兵する

Sources

参考資料

  1. 平家物語――妖しくも美しき―― 鹿ケ谷事件国立公文書館

    鹿ケ谷事件、藤原成親・俊寛ら院近臣の動向と処罰について参照。

  2. 平家物語――妖しくも美しき―― 以仁王の挙兵国立公文書館

    治承三年の政変後の後白河院幽閉、安徳天皇即位、以仁王・源頼政の挙兵への流れについて参照。

  3. 東山鴨東裏面 平清盛と後白河法皇京都市

    清盛と後白河法皇の関係、1177年鹿ケ谷の陰謀、1179年治承三年の政変、1180年安徳天皇即位の年表確認に参照。

  4. 平氏政権の研究CiNii Research

    後白河院政期の政治権力、治承三年の政変と平氏政権の構造について参照。