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鎌倉時代1268〜1281年を中心に13世紀後半政治・外交重要度 A

蒙古襲来―なぜ二度の元軍を退けても幕府は苦しくなったのかもうこしゅうらい なぜにどのげんぐんをしりぞけてもばくふはくるしくなったのか

一言でいうと

蒙古襲来は、拡大を続けるモンゴル帝国・元と日本が東アジアの国際関係のなかで衝突した事件です。フビライは日本に使節を送り関係を求めましたが、日本側は要求を受け入れず、1274年の文永の役と1281年の弘安の役という二度の軍事侵攻を受けました。幕府は北条時宗のもとで九州の防衛を強化し、文永の役後には博多湾岸に元寇防塁を築きます。日本側の抵抗、防塁、元軍側の作戦・補給上の問題、気象など複数の条件が重なって二度の侵攻は失敗しましたが、新しい領土を得た戦争ではなかったため御家人へ十分な恩賞を与えにくく、その後も警固などの負担が続きました。

なぜモンゴル帝国が日本に関わるようになったのか

1206年、チンギス=ハンのもとでモンゴル帝国もんごるていこくが成立しました。その後、モンゴル帝国はユーラシア各地へ支配を広げ、東アジアでも中国や高麗こうらいへ勢力を拡大していきます。

高麗は長い戦争を経てモンゴルに服属し、日本との交渉や日本遠征にも関わることになります。一方、中国ではフビライふびらいが勢力を固め、1271年には国号を「元」としました。

つまり蒙古襲来は、日本国内だけで始まった事件ではありません。モンゴル帝国の拡大、高麗との関係、中国南部の南宋との戦争という大きな東アジア情勢のなかで起こりました。

1268年の国書は宣戦布告だったのか

フビライは日本へ使節を派遣し、1268年にはその国書が日本へ届きました。国書では日本との関係を結ぶことが求められていましたが、そこにはモンゴル皇帝を中心とする国際秩序へ日本を組み込もうとする性格もありました。そのため、単純な友好の申し入れとも、最初から一方的な宣戦布告だったとも言い切れません。

同じ1268年には北条時宗ほうじょうときむねが執権となります。朝廷と幕府は対応を検討しましたが、日本側から元へ返書は送られず、幕府は西国の武士たちに警戒を命じていきました。

ここで重要なのは「元が突然攻めてきた」と考えないことです。使節の往来と外交上の要求が続いた後、軍事侵攻へ進んでいきました。

1274年の文永の役では何が起きたのか

1274年、元・高麗などからなる軍が海を渡り、日本へ侵攻しました。これが文永の役ぶんえいのえきです。元軍はまず対馬つしま・壱岐いきを攻撃し、その後博多湾へ進みました。九州の武士たちはこれを迎え撃ち、博多周辺で戦闘となります。

『蒙古襲来絵詞』には、肥後国の御家人竹崎季長たけざきすえながが戦う姿や、元軍側の兵士・武器などが描かれています。火薬を用いた「てつはう」も、当時の戦闘を知る代表的な資料の一つです。

元軍はその後船へ戻り、日本から撤退しました。ただし、この撤退を「台風が来たため」とだけ説明するのは適切ではありません。日本側との戦闘、元軍側の作戦や補給、気象などについてさまざまな議論があり、一つの原因だけに固定しないことが重要です。

元寇防塁は何のために築かれたのか

文永の役後、幕府は九州の御家人たちに博多湾岸の防備を命じました。1276年には、博多湾岸に約20kmにわたって石築地いしついじが築かれます。現在元寇防塁げんこうぼうるいと呼ばれている防御施設です。

防塁の建設は九州各国の御家人たちが分担しました。海岸から敵軍が容易に上陸することを妨げ、その背後で武士が防衛するための防御線となりました。

これは幕府が文永の役の経験から防衛方法を変えたことを示します。同時に、防塁の建設や警固は御家人たちに新しい負担を課すことにもなりました。

南宋の滅亡は二度目の襲来とどう関係したのか

1279年、元は中国南部の南宋なんそうを滅ぼしました。これによって元は、旧南宋地域の人員や船舶などを日本遠征へ動員できる条件を広げます。

1281年の二度目の遠征では、高麗方面から来る東路軍とうろぐんと、旧南宋地域を中心に編成された江南軍こうなんぐんが日本を目指しました。弘安の役も、モンゴル帝国の東アジア支配の拡大と深く結びついた出来事として捉える必要があります。

1281年の弘安の役では、なぜ元軍を退けられたのか

1281年、元軍が再び日本へ侵攻しました。これが弘安の役こうあんのえきです。東路軍は対馬・壱岐を経て博多湾へ進みましたが、日本側はすでに元寇防塁を築き、防衛体制を整えていました。

文永の役のように博多湾岸へ容易に上陸することはできず、海岸や島々をめぐって戦闘が続きました。やがて東路軍と江南軍は合流しますが、長期間にわたる海上作戦では、大軍をまとめて動かし、兵員や食料を維持すること自体が大きな問題となります。そこへ大規模な暴風が襲い、多くの軍船が失われました。

したがって、弘安の役を「神風が吹いたので日本が勝った」とだけ覚えるのは不十分です。日本側が文永の役後に防衛を強化していたこと、武士たちが抵抗を続けたこと、元軍側が海を越えて大軍を運用する難しさを抱えていたこと、そして暴風によって艦隊が大きな被害を受けたことなど、複数の要因が重なっていました。

また、「日本武士は一騎打ち、元軍は集団戦法」という対比だけで二度の戦争全体を説明することも避ける必要があります。

なぜ戦争に勝ったのに幕府は苦しくなったのか

蒙古襲来は、幕府にとって通常の国内戦争とは大きく異なりました。これまでの戦争では、敵から没収した土地などを戦功のあった御家人へ新恩給与しんおんきゅうよとして与えることができました。しかし蒙古襲来では元軍を退けても、日本側が新しい領土を獲得したわけではありません。

そのため幕府は恩賞をまったく与えなかったわけではないものの、戦闘や警固に参加した御家人たちの期待に十分応えることが難しくなりました。しかも、二度目の襲来を退けた後も再来襲への警戒は続き、九州の警固や防塁維持などの軍事的・経済的負担も続きます。

戦争には勝った → しかし新しい土地を得られない → 十分な恩賞を配りにくい → それでも防衛負担は続く、という問題が、鎌倉時代後期の御家人窮乏や幕府政治の変化へつながっていきます。

ただし、「蒙古襲来によって鎌倉幕府が滅亡した」と一直線に考えてはいけません。弘安の役から幕府滅亡までは約半世紀あり、その間の政治・社会変化は別のテーマとして追います。

このページで覚えたい流れ

1206年、モンゴル帝国成立 → モンゴル帝国が東アジアへ勢力を拡大し、高麗も服属する → 1268年、日本へフビライの国書が届き、北条時宗が執権となる → 日本側は要求を受け入れず、防衛を強化する → 1271年、フビライが国号を元とする → 1274年、文永の役 → 幕府が再来襲に備えて九州の防衛を強化する → 1276年、博多湾岸に元寇防塁を築く → 1279年、元が南宋を滅ぼす → 1281年、弘安の役 → 防塁、日本側の抵抗、元軍側の作戦・補給上の問題、暴風などが重なり侵攻は失敗する → 新しい領土を得られず、御家人へ十分な恩賞を与えにくい → 警固などの負担も続く → 元寇後の御家人窮乏へ

蒙古襲来は、東アジア規模の政治変動が日本の幕府・御家人社会へ大きな負担を与えた出来事として理解します。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1268年、日本へモンゴルから国書が届き、同年に北条時宗が執権となった
  • 1274年が文永の役、1281年が弘安の役。二度の蒙古襲来を区別する
  • 1276年、文永の役後に博多湾岸へ元寇防塁が築かれ、再来襲への防衛が強化された
  • 1279年に元が南宋を滅ぼし、旧南宋地域の人員・船舶などを次の遠征へ動員できる条件が広がった
  • 元軍の敗北を「神風だけ」や「一騎打ち対集団戦法だけ」で説明しない
  • 新領土を得られず恩賞を十分に配りにくかった一方、防衛負担が続いたことが御家人窮乏へつながる一因となった

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0 / 5 問回答

  1. 問1

    1268年に届いたフビライの国書は、最初から日本への即時侵攻だけを告げる単純な宣戦布告だった。

  2. 問2

    文永の役後、幕府は再来襲に備えて博多湾岸に元寇防塁を築き、防衛方法を強化した。

  3. 問3

    弘安の役で元軍が敗れた理由は暴風だけであり、日本側の防塁や抵抗、元軍の補給・運用上の問題はほとんど関係なかった。

  4. 問4

    1279年の南宋滅亡により、元は旧南宋地域の人員や船舶を二度目の日本遠征へ動員できる条件を広げた。

  5. 問5

    蒙古襲来で幕府は新しい領土を獲得したため、戦功のあった御家人へ十分な土地を恩賞として配ることができた。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. モンゴルから通交を求める国書が届く
  2. 文永の役が起こる
  3. 博多湾岸に元寇防塁が築かれる
  4. 弘安の役が起こる
  5. モンゴル帝国が成立する
  6. 北条時宗が執権となる
  7. フビライが国号を元とする
  8. 元が南宋を滅ぼす
  9. 蒙古襲来後、御家人の窮乏が深まる

Sources

参考資料

  1. モンゴル軍船の椗/蒙古襲来と元寇九州国立博物館

    蒙古襲来の呼称、文永の役・弘安の役の位置づけ、弘安の役に関わる鷹島海底遺跡の資料について参照。

  2. 元寇防塁(百道地区)福岡市

    1276年の石築地築造、博多湾岸約20kmの防塁、文永の役後の再来襲への備えについて参照。

  3. 中世武士団―地域に生きた武家の領主―国立歴史民俗博物館

    蒙古襲来絵詞と竹崎季長の武士団について参照し、日本側の戦い方を単純な一騎打ち像へ固定しないための補助資料とした。