← 鎌倉時代の年表へ戻る
鎌倉時代1224〜1249年を中心に鎌倉時代中期政治・外交重要度 A

御成敗式目と執権政治―北条泰時は幕府のルールをどう整えたのかごせいばいしきもくとしっけんせいじ ほうじょうやすときはばくふのるーるをどうととのえたのか

一言でいうと

承久の乱後、鎌倉幕府は京都・西国へ支配を広げ、所領争いや訴訟をこれまで以上に処理する必要に迫られました。三代執権の北条泰時は、連署・評定衆による合議の仕組みを整え、1232年には御成敗式目を制定して幕府裁判の基準を明文化しました。執権政治は、北条氏の権力強化だけでなく、合議・法・裁判制度によって御家人社会を統治する政治へ発展していきます。

なぜ承久の乱後に新しい仕組みが必要だったのか

1221年の承久の乱後、幕府は京都方から没収した所領などに新補地頭を置き、西国へも御家人を進出させました。支配範囲が広がる一方で、地頭と荘園領主などの間で年貢や土地の権利をめぐる争いも増えていきます。

そのため幕府には、多くの訴訟を継続的に処理し、似た争いには一定の基準で判断を示す仕組みが必要になりました。ここから、北条泰時のもとで合議と裁判制度の整備が進みます。

北条泰時はどのような執権だったのか

1224年に北条義時が死去すると、その子の北条泰時ほうじょうやすときが執権となりました。泰時は承久の乱で幕府軍を率いて京都へ進み、その後も六波羅で京都・西国支配に関わった人物です。

泰時は執権一人へ判断を集中させるだけでなく、複数の有力者が政治判断へ参加する制度を整えました。執権政治が個人の力量だけに依存せず、継続して運営できる仕組みへ発展していく点が重要です。

連署と評定衆は何のために置かれたのか

1225年、執権を補佐する連署れんしょが置かれ、北条時房がその役割を担いました。幕府の重要文書で執権とともに署名することから、この名で呼ばれます。

同じ1225年には評定衆ひょうじょうしゅうも置かれました。評定衆は執権・連署とともに重要な政務や裁判を合議する有力御家人・実務官人です。これによって、幕府の重要事項を複数の有力者で検討する恒常的な政治運営が整いました。

合議制だけではなぜ足りなかったのか

複数人で相談して決めるようにしても、何を基準に判断するのかが定まっていなければ、裁判結果は安定しません。特に御家人にとって重要な所領争いでは、誰の権利を認めるかを一貫した基準で判断する必要がありました。

そこで泰時は、頼朝以来の先例や武士社会で正しいと考えられてきた慣習・道理を整理し、幕府の裁判で用いる共通の基準を示そうとしました。それが1232年の御成敗式目です。

御成敗式目とは何か

1232年、北条泰時の主導によって御成敗式目ごせいばいしきもくが制定されました。貞永式目じょうえいしきもくとも呼ばれ、全51か条からなります。

内容は守護・地頭の職務、所領、相続、犯罪、訴訟など、御家人社会で実際に問題となる事項を扱います。重要なのは、律令をそのまま武士向けに書き直した法律ではなく、源頼朝以来の先例と武士社会の慣習・道理を裁判基準として整理した点です。

御成敗式目は幕府と御家人の世界、とくに幕府が扱う裁判の基本法として機能しました。社会の変化に応じてその後も追加法が出され、式目を補っていきます。

御成敗式目ができると律令や公家法はなくなったのか

なくなりません。朝廷・公家・寺社などには従来の法秩序が残っており、1232年から日本全国のすべての人が御成敗式目だけで裁かれたわけではありません。

鎌倉時代には、公家社会の法と幕府の武家法など異なる法秩序が並存していました。その中で御成敗式目は武家社会の基本法として大きな影響力を持ち、後世の武家法にも受け継がれていきます。

引付衆はなぜ必要になったのか

1249年、五代執権北条時頼ほうじょうときよりの時代に引付衆ひきつけしゅうが置かれました。所領をめぐる訴訟などを専門的に審理し、増え続ける裁判を迅速に処理するための仕組みです。

連署・評定衆で合議の仕組みを整え、御成敗式目で判断基準を示し、さらに引付衆で訴訟処理を専門化するという流れを見ると、鎌倉幕府の政治が制度として発展していったことが分かります。

北条泰時は幕府政治をどう変えたのか

泰時の重要性は、有名な法律を作ったことだけではありません。承久の乱後に広がった幕府の支配を安定させるため、連署で執権を補佐し、評定衆で合議し、御成敗式目で判断基準を示す仕組みを整えました。

つまり執権政治は、有力者同士の権力争いだけで動く政治から、合議・法・裁判制度によって御家人社会を統治する政治へ発展したと理解できます。

このページで覚えたい流れ

1221年、承久の乱 → 幕府の支配が京都・西国へ広がる → 所領争い・訴訟処理の重要性が増す → 1224年、北条泰時が執権となる → 1225年、連署・評定衆を置く → 合議による政治運営が整う → 裁判の共通基準が必要になる → 1232年、御成敗式目を制定 → 頼朝以来の先例と武士社会の慣習・道理を基準にする → その後も追加法で補う → 1249年、北条時頼が引付衆を置く → 訴訟処理の専門化・迅速化が進む

執権政治の発展は北条氏の権力強化だけではなく、合議・法・裁判制度が整っていく過程として理解することが重要です。

Review

入試で押さえるポイント

  • 1225年、連署・評定衆が置かれ、執権を補佐し重要事項を合議する政治体制が整った
  • 1232年、北条泰時が御成敗式目(貞永式目)を制定した。全51か条
  • 御成敗式目は頼朝以来の先例と武士社会の慣習・道理を基準とし、御家人社会や幕府裁判の基本法となった
  • 御成敗式目の成立で律令・公家法が消滅したわけではなく、異なる法秩序が並存した
  • 1249年、北条時頼が引付衆を設置し、所領訴訟などの処理を強化した
  • 執権政治は北条氏の権力だけでなく、執権・連署・評定衆・御成敗式目・引付衆による制度化として理解する

Check

理解度チェック

各文が正しいか、○か×で答えてください。回答すると、その場で解説を確認できます。

0 / 5 問回答

  1. 問1

    承久の乱後に幕府の支配が西国へ広がると、地頭と荘園領主などの所領争いが増え、継続的な裁判制度の整備が重要になった。

  2. 問2

    北条泰時は執権一人に判断を集中させることで、他の有力者が政治判断に参加しない体制を作った。

  3. 問3

    1225年に置かれた連署と評定衆は、執権を補佐し、重要な政務や裁判を合議する政治運営を支えた。

  4. 問4

    御成敗式目は律令をそのまま武士向けに書き換え、日本全国のすべての人に一律適用した法律だった。

  5. 問5

    1249年に置かれた引付衆は、増加する所領訴訟などを専門的に審理し、裁判処理を強化するための仕組みだった。

Timeline

関連する年表

前後の出来事とつなげて位置を確認できます。

  1. 連署が置かれる
  2. 評定衆が置かれる
  3. 御成敗式目が制定される
  4. 引付衆が置かれる
  5. 承久の乱が起こる

Sources

参考資料

  1. 御成敗式目東京大学学術資産等アーカイブズポータル

    御成敗式目の性格と武家社会における位置づけについて参照。

  2. 御成敗式目京都大学貴重資料デジタルアーカイブ

    1232年制定、51か条、武家社会の基本法典としての位置づけについて参照。

  3. 御成敗式目日本大学法学部図書館

    承久の乱後の所領紛争、頼朝以来の先例と道理を基準とする制定背景について参照。

  4. 大日本史料 第五編之三十一東京大学史料編纂所

    1249年の引付開始について参照。